メルPチャー

誰かに話すまでもないこと

静かに思う

夏の終わりは私が憧れていた先生の命日がある。正直、命日という言葉すらピンとこない。


お参りには、3回ほど行ったけどいろいろな事情からもう行くことはできなくなってしまった。


言い方を変えれば「行かない方が良い状況」になった。


それは致し方ない事情で、家族にしかわからない痛みがあるのだから、私はただその事実を時間をかけて受け入れるのみとなった。


先生との関わりはずっと、遠い昔のことになってしまった。今となっては共に語れる仲間は一人しかいない。(以下ゴーちゃん)ゴーちゃんも先生に憧れを持っていた一人である。

ゴーちゃんとは、同じ痛みを持つ同志になる。


毎年、命日になるとその日から3日ほどかけて先生の思い出話しをメールする。それから、お互いのとりとめもない近況を。

この前、レンタルビデオ屋に行ったら先生に似ている人がいた。とか、先生の名前が貼ってあるシールがまだ傘立てにあったとか、そういう類の話。


今年もメールを交わしたけど、お互いの生活に変化があったのでそれが主な会話となった。


ゴーちゃんは時々先生のブログを見るという。何年か前に2回ほどゴーちゃんにブログのURLを聞いたけどスマホの機種変更を繰り返すうちにURLもわからなくなってしまった。


生きていると日々、更新されていく。それが自然で当たり前のこととして通過していく。

不思議なことに、ゴーちゃんとメールを交わすと少し時間が止まる感覚になる。


先生との最後の会話は、日本に帰ったら会おうね。だった。さようならじゃなくてちゃんと次の約束があった。

これ、ゴーちゃんに話したかな。先生とのことについては何でも共有していたつもりだったけど。


私がまだ20歳位のお嬢さんだったなら、この何とも言えない悲しみをお酒が入って饒舌になった時に吐き出せるかもしれない。残念なことにもうそれを許されないほど大人になってしまった。


ゴーちゃんはもっともっと大人になってしまった。


もう、今年はゴーちゃんから返信が来ない。今年の分の痛み分けは終わったんだと思う。


おそらく、この先も2人で静かに誰からも悟られず先生を思い出すのだろう。